天の華 2


 オレは4月から、東京都内にある氷帝学園の中等部に通い始めました。学園から徒歩10分という場所にマンションを借りての一人暮らしでした。週に2回、東京に住んでいる父の知り合いのおばさんが様子を見に来てくれる他は、全くの自由気ままな生活でした。しかし強豪と全国に名を馳せているテニス部の練習は厳しく、遊ぶ暇もなく毎日へとへとになっていました。
 学園生活は順調で、もともと社交的な性格であったオレは、すぐに友達がたくさんできました。東京のコは積極的であると聞いていたように、女の子には告白も多くされたりしました。しかしオレは大阪での別れ際のこともあり、しばらくは女の子とお付き合いをする気は起きませんでした。それに、女の子は皆可愛くはありましたが、心が揺さぶられることはなかったのです。
 毎日を順調に過ごしていたオレでしたが、いつも、決定的な何かが物足りないと思っていました。しかしそれが何なのかが解からず、オレは何事もなく流れる日々に次第に苛々し始めていました。



 そんな折、あるささやかな出来事が起こりました。オレが東京に出て3ヵ月ほど経った頃のことでした。
 当時のオレはクラスの図書委員をしており、その日はクラスの読書量調査の資料を持って職員室に行ったのです。しかし職員室を見回しても、顧問の先生は見つかりませんでした。

「すみません、榊先生はどちらにおいでになりますか」

 近くにいた先生に聞きますと、先生は申し訳なさそうに言いました。

「榊先生は体調を崩されて、しばらく入院することになったんだよ」

 オレは困りました。図書委員会では月毎に委員会誌を発行しており、その月の担当が他ならぬ自分のクラスだったのです。初めての担当ですので、オレは先生に質問がたくさんあったのでした。その上、こう言ってはなんですが、オレのクラスのもう一人の図書委員は仕事もしない怠け者でした。これまで委員の仕事は、全てオレが一人でやっていたのです。今更相談をもちかけたところで、役に立つとは思えませんでした。

「でも大丈夫ですよ。榊先生の代わりに。新しく臨時の先生が来て下さいましたから」

 心配げな顔をしていたオレに、先生は安心するよう言いました。臨時の先生は明日から学園に勤務するそうで、今はあいさつも兼ねて理事長とお話しをしているそうでした。オレと入れ違いくらいに理事長室に向かったとのことでしたので、話し合いはまだ長引くでしょう。オレは話し合いが終わったら図書室に来てくださるように言伝てて、職員室を後にしました。


   *  *


 図書室に来たオレは読書机に資料を置いて、臨時の先生がくるまでの暇つぶしに本を読んでいました。オレは読書が好きでした。日本文学から海外のものまで、ジャンルも絵本や童話から時代小説や恋愛小説、専門書まで、幅広く読んでいました。
 学園の図書館は古めかしい西洋建築です。そこには新しく買い足している書籍の他に、歴代の卒業生から寄贈されたと云う蔵書があり、その量はヘタな街の図書館よりも充実したものでありました。
 図書館は3階建てで地下もついており、地下には主に寄贈品の中でも古いものが置いてありました。その少しの誇り臭さがある広く静かな空間は、入学当初からオレのお気に入りでした。オレがこの時手に取った本は、昭和の中期に書かれた日本文学でした。随分と読み込まれたものなのでしょうか、本は古く痛んでいて表紙には日焼けやしみが付いていました。最近の本ならば巻末に付いている注釈も各ページの隅に書いてあるなど、いかにも年代を感じさせるものでした。その他に有名な純愛小説を数冊選び、それらを手に奥の簡易イスに腰を下ろしました。先生はまだこないだろうと見当をつけて、オレは本を読み始めたのです。


 それからどのくらいの時間が経ったのか。
 不意に本から意識を離したオレは、一瞬、自分がどうしてここで本を読んでいるのかが解かりませんでした。数瞬ぼんやりと考え、そして臨時の先生を待っているのだと思い出したとき、オレは一気に青くなりました。手始めに読んだ純愛小説は、1冊を読み終えるくらいでした。じっくり本を読む性分でしたので、もう随分の時間が経っているのでしょう。

「あかん・・!」

 思わずそう叫び、オレは脇に散らかした本をさっさと拾い上げてカバンに詰め込みました。年上の、しかも初対面の人を待たせるなど、きちんと躾を受けてきたオレには許せない失態です。その上自分から約束を取り付けたのですから、尚更申し訳が立ちません。オレは急いで上にあがりました。
 勢いよく地下からの階段を駆け上がって出た1階は、夕焼けのオレンジ色の光で満ちていました。図書館のロビーはふき抜けになっており、3階まで届く大きなはめ込みのガラス窓が、ちょうど西側に付いているのです。そこから、沈んでゆく真っ赤な太陽の光が、広々とした館内に惜しげもなく差し込んでいました。よく磨かれた石版の床にも、ニスを塗り重ねられた艶のある壁にも光が反射して、まるで光の異空間にでも迷い込んだかのような錯覚を覚えました。
 とても美しい光景でした。焦っていた気持ちが解かれていくようでした。
 ぐるりと辺りを見回しますと、誰か人がいる気配はありませんでした。随分時間が過ぎたようでしたが、まだ先生は来ていませんでした。オレはほっとして、ロビーのソファに腰を下ろしました。そしてオレンジ色の光が次第に闇に飲まれてゆくのを、ただ眺めていました。
 しかし、その日、日がとっぷりと暮れてしまっても、先生が来ることはなかったのです。





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次くらいにあの人が登場!(←バレバレです)

050724



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