|
月を追いかけて
フェンスに手を掛ければ、カシャリと金属音がした。 子供のコブシ大ほどの大きさの網目からは、しめった生ぬるい夜風が通り抜けてくる。それがむき出しの肌をするりと撫でていく感触は不快以外のなにものでもなかった。しかしそれに気を煩わせることなく、忍足は更に夜気に身をさらすように両手で網を掴むと、フェンスに額を押し付けて下を覗き込んだ。 眼下には闇が広がっていた。 明かりの消えてしまった校舎と月も星も見えない曇り空が、ますますその色を濃くしていた。じっと見つめていると、ただの闇が酷く魅力的なものに思えてくるから不思議だ。きっとこの漆黒は地獄の瘴気を孕んでいて、気を迷う者達をその深遠へと甘く誘うのだろうと思った。 この場所―― 学園の屋上は、本来ならば立ち入り禁止となっている。なんでも忍足がこの学園にくる2年ほど前に、生徒の飛び降り自殺があったらしい。それ以来だそうだ。 そんな暇を持て余した奥様方が口にするようなゴシップや噂話に興味はない忍足だったが、しかし今、その事件について当事者以外に誰よりもよく知っているのは忍足だ。過去のことであるし小耳にはさむ程度で聞き流していただろう事件の話を、なぜか忍足に詳細に教えてくれた ――ほぼ一方的にではあるが―― のは、跡部景吾だった。 跡部景吾。 忍足は部活動が一緒であったが、クラスも離れていたためにほとんど話したことはなかった。だが直接接する機会はなくても、忍足は跡部のことをよく知っていた。真偽の程は解からないが、跡部の噂話なんてものは聞くでもなく耳に入ってくる。彼はこの学園で生活をしていれば一日に必ず数度はその名前を耳にするであろうほどの有名人だった。 何か間違いでも起こらない限り、自分とは関わることの無い人種だと思っていた。跡部は何かにつけて派手で、どちらかというと目立つことを好まない忍足とは正反対の世界に生きるような人間だからだ。 しかし、その”間違い”が起こった。 そしてその跡部とおそらく初めてまともに交わしただろう会話が事件のことだったのである。 + ・ + ・ + ・ + ・ + ・ + ・ + ・ + ・ + ・ + ・ + ・ + ・ + ・ + ・ + その日、忍足はふらふらと廊下を歩いていた。 もうすぐお昼になろうかという時間帯で、他の生徒達は授業の真っ最中だ。 昨夜はつい夜更かしをしてしまって眠りについたのは明け方近くだった。辛うじて1・2限はでたもののこれ以上は限界だと、忍足はクラスメイトに適当に理由を頼んでフケることにした。 はじめに定番として保健室に行ったが、数台あるベッドは全てふさがっていた。この内の何割が本当の病人なんだろうと疑ってしまうが、そういう忍足もサボりなのだから人のことは言えない。 (部室のソファでもええか) 忍足はまだ入学したての1年生であったが、200人いるというテニス部で既に準レギュラーの地位を獲得していた。正レギュラーの部室には劣るものの、準レギュラーに割り当てられた部室もなかなかに快適な造りをしているのだ。 (合い鍵作っといて正解やったなぁ) 制服のポケットを探ると、チャリと金属音がする。それを確認して、忍足は部室棟の方へ足を向けた。 「・・・ん?」 部室棟へ向かう途中、人影を見つけた。相手が角を曲がる一瞬のことだったが、その姿には見覚えがあった。 (確かあれは・・・) ここで思わず後を追ってしまったのは、それが普段授業をサボるとは思われない人物だったからだろう。自分には滅多に起こらない好奇心が沸き起こったのも、やはり聞き知っている彼に多少なりとも興味があったからだろうとは、後になって思うことだ。 果たして。 彼が向かった先は屋上だった。 屋上は閉鎖されているという話を聞いていたが、後について屋上のノブを回してみれば簡単に鉄の扉は開いた。一歩踏み出すと、強い光が目をやく。眩しい太陽は寝不足の目にはキツイくて、忍足はとっさに目を閉じた。そして再び開けて見やれば、正面の柵に背をもたれてこちらを見ている青い目とかち合った。 「サボりか」 「ああ。・・・跡部もか」 二人が言葉を交わしたのは、これが初めてだった。 てっきり無視されるものだと思っていたが、意外にも先に声をかけてきたのは跡部の方だ。 向こうから声をかけてきたことで、後を付けてきたという忍足の後ろめたさも払拭される。忍足は跡部の傍まで行くと、同じように柵に寄り掛かった。 「屋上、閉鎖されとるって聞いとったんやけど。鍵かけとらんのやな」 「合い鍵もってる」 そう言って跡部は、ポケットから鍵を取り出して見せた。細かい傷がついている合い鍵は、少し古いものに見えた。 「普段は閉鎖っことになってるからな、俺様だけのサボり場だ」 誰も来ねぇから快適だぜ?と得意げに見せびらかす跡部の様子は幼く、忍足は内心驚いた。 「・・・お前、そーゆーヤツやったんか」 「”そういう”?」 「まぁ、なんちゅうか・・・噂で聞くようなヤツ?オレお前と話したの初めてやし。人から聞いた以外にお前のことは知らへん」 正直に言うと、跡部はハンッと軽く笑い飛ばして「それもそうだな」と頷いた。 それから少し、二人共黙って風に吹かれていた。 天気がよく、そろそろ南中にさしかかる太陽に作られた影は二人の足下に小さくまとまっていた。 学園は周囲を樹木で囲まれている。そして校舎は広大な敷地内の中央にまとまっているため、外の喧騒は二人の耳には遠かった。そのかすかな音を拾いつつ、忍足はなんとも不思議な気分を味わっていた。 (時間の感覚がなくなってくるわ・・・) 人当たりがいいと思われている忍足だったが、その実、あまり人と接するのは好きではなかった。どちらかというと一人でいる方が落ち着く。一緒にいるのがほとんど初めて接する相手なら尚更だ――― と、そうであったはずなのに。この時、跡部と共にいることを苦痛に思ってはいなかった。寧ろ妙な落ち着きすら感じていることに、忍足自身も不思議だった。 どうしてだ?と考えて、すぐに、跡部が忍足に干渉してこないからだと気付いた。 沈黙は気まずいと気を遣ってあれこれ話し掛けてくる輩は多いが、余計な気遣いは邪魔なだけだと思っている。忍足はもともと寡黙なタイプではないのだから、話したいことがあったら自分から口を開く。しゃべらないのは話したくないからだと、そんな単純なことに大抵は気付いてくれないものだ。だからこのように、沈黙をそのまま楽しめるのは稀だった。 まぁ、こちらに無関心であるか・・・もしくは余計な気遣いすらもしないタチであるか、かも知れないが。 目を向けると、跡部は柵に手をかけてじっと地面を見下ろしていた。忍足が跡部に注意を向ける前からずっと同じようにしていたのかも知れない。 それからしばらく、不躾かとも思われるくらいに見つめても(いい加減退屈になってきたので、こちらを向かないかと少なからず期待していた)、跡部は一向にその視線に気付くことはなかった。 次第に忍足は、跡部の様子が何かおかしいものに感じはじめた。先ほどまでの忍足のように流れる雲でも眺めていればそれなりに楽しみも見つけられるだろうが、跡部はひたすら、さして変化のない地面を、それこそ瞬きすら忘れているのではと思うほどに凝視しているのだ。 それを見ている忍足は、段々気持ちが悪くなってきた。 それは跡部が、ではなく。跡部にそのような奇妙な行動をさせる”何か”があることにだった。 |
|
暗い雰囲気です。 続きがんばります・・・・・・ 050928 |