天使の苦悩





「かわいそうだな」

静寂の中でぽつりと落された言葉は、温かい部屋にそぐわない、やけに冷え切ったものになった。
けれど。自分が“可哀想”だと言ったその男を見る瞳は、きっと冷たい声色を裏切るものであるに違いないと思った。

静かになったホテルの一室で、ただ向かい合って座っている。目の前に居る男の髪はしっとりと濡れていて、いつものぱさぱさと軽い感じが見られない。
それがある意味この男に対して哀憐を覚えさせ、またこの状況をして、改めて自分にこんな事を言わせる一因であろう。
この男は、自分のことを愛していると言う。だから、そう言われる度に自分はこう返すのだった。
何もこの男に対してだけ、こんな態度をとっているのではない。ただ、愛されるのには慣れたくないだけだ。それは相手が誰であっても変わらない。
いつも傍にいるのではなくて、傍にいても離れていても・・・何時の間にかいなくなっていても気にならない。時々思い出す程度で後に引かない。共にいる間だけ、その一瞬だけを共有する関係。
自分は、人との間にはそんな程良い距離をおきたいのだ。

「お前は可哀想な男だ、」

 忍足。

求める事はしない。だから、求められて返す事はしない。故に、ただ一人にだけ、その向けられる想いと同等な分の感情を返してやることなんてしない。お前だけを見てやる事は出来ないと、そう何度も言っているのに。
それでもお前は、オレだけを求めるのか。

「かわいそうな・・・・・・莫迦な男だ」

この憐れな男を、一体誰が救う事が出来るというのだろうか?


しなやかな腕を緩く持ち上げて、正面の近い位置で、ひたすら真っ直ぐな強い瞳を向けてくる忍足の頭を抱え込む。
そして濡れて外気に冷やされた漆黒の髪に、跡部は頬を摺り寄せた。
「・・・冷てぇな」
片手で忍足の頬を撫でる。冷たい髪とはうって変わって、そこは僅かに腫れて熱をもっていた。確か、口端にはうっすらと血が滲んでいたはずだ。
「なんで、んな無茶をした。らしくねぇな」
忍足はその質問には答えずに、跡部の腰に腕をまわして、窮屈な体制を気にもせずに引き寄せる。
外にいた彼の方が冷え切っているというのに、腰と背を包み込むその腕は、跡部を温めてやろうとしているかのようだった。

二人きりの部屋に響くのは、備え付けの小さな冷蔵庫と空調機の稼動音。そして、グラスから零れたアイスが溶けて、フローリングの床に滴り落ちる音。
テーブルの下に広がった琥珀色の液体の上に半ば透明な雫が落ちて、規則的に高く単調な音を立てていた。雨がトタンを打つようなその音は、如何してかどこか懐かしく・・・そして酷く淋しい気持を掻き立てる。
二人でいるのにひとりだと、強烈にそう感じさせられる。
小さいながらもやけに耳に響く高音は、相手の息遣いすらも飲み込んでしまうようだ。それに連鎖的に思い出すのは、幼い日の情景である。他人との深い関わりを避けるのも、強い感情を向けられるのが嫌なのも、この幼少の記憶に起因しているのは確かだった。
自己防衛の一つとして身につけたものを、自分は、処世術を心得た今でも引き摺っている。
しかしそれが欠点だとは思わない。寧ろ、この先もずっと変わらずに“オレ”という存在を構成する核を為すものだと思っている。皮肉にも、離れて見ることでよく解ることの方が世の中には多いのだ。
人の持つものの中で、最も美しいのは感情であり、また最も信じられないのは愛である、と。今まで生きてきて、そう解ったことが一番の収穫だろう。
でも、だからこそ。
そう知ってしまったから、いらない事に気付かされたりもするのだが。
自分は人との馴れ合いを嫌う一方、ある種の人間には何処までも冷酷に撤するが出来ないでいる。そしてその度に、否応にも意識させられるのだ。
“愛”なんてものは信じられない。それなのに、オレは。そんな気の迷いのような一時の激情に振り回される、情けなくも愚かしい、けれど芯に強さを秘めた“人”というものを、酷く気に入っているのだと。
汚い人間なんて、ごまんといる。実際にそいつらと関わってきたオレが言うんだから、間違いは無い。
汚い。周りの人間、全員、汚い奴等ばかりだ。
金に汚く、意地汚く、言葉が汚くて、手が汚れてる。
口から吐き出される息の臭さというものは、体内の腐敗具合を如実に表している。
そんなヤツ等は穢れきった貌をオレに向けて、一様に汚い手をオレに伸ばして懇願する。

 ―――― 救って、くださいよ

(・・・莫迦なヤツ等だ)
“天使”と縋ったモノは、汚物に濡れた単なる男娼だ。
“金髪”“蒼い目”、取って付けた“微笑”――― それが“天使”だと?

 そんなわけあるか。

でも、欲と僅かばかりの知識に心血注いで生きている愚かな人間たちを、自分は見限る事が出来ないでいる。見下し、野垂れ死ねばいいと思っている反面、真逆の思いに、いつも悩まされている。
感情を自分の思い通りにコントロールするということは本当に、大変に難しいものだ。表情や態度に表すことはなくても、咄嗟に感じてしまう事は防ぎようがない。
そして。その自分において一番の“疑問”に対する答えは、直ぐ傍に転がっているように感じるのだが・・・明確な答えというものは未だ出せずにいる。
もしそれを見つけてしまったら。今の“自分”というものが根底から覆されてしまうような予感がしていた。


水音に物思いにふけっていると、不意に忍足が身動ぎをした。それに跡部は拘束する腕を緩めてやる。
少し身体を離して跡部を見上げてくる目はやはり強く、優しい。
そしてその瞳を見る度に ――自惚れではなく―― コイツは本当に“跡部”が好きなのだと実感させられる。
忍足は腰にまわしていた腕を持ち上げて、緩く跡部の頬を撫でた。逞しい腕、それに見合わない、壊れ物を扱うような触れ方だった。
「どないしたん? ・・・寒いんか?」
「・・・・・・・・・」
「それとも、腹でもへった?」
向けてくる眼差しが、声が、優し過ぎて嫌になる。
「跡部?」
小首を傾げた忍足は、無反応の跡部にほとほと困っているようで――― 情けない。
情けなさ過ぎる男だ。
「・・・・・・・・・」
けれど強情な男で、お前だけに特別に与えられるものは無いと、そう言っているのに。どれだけ言っても諦めようとしない。
この男が、如何して自分にこうまでするのか。それが不思議でならない。
「あと・・・」
「なぁ、忍足」
跡部が忍足の言葉を遮る。
「どうして、オレにそこまでする?」
今この時、この気持ちの晴れそうな時じゃないと、もう聞く機会がない気がしていた。
突然の問いかけに、忍足は目を見開く。
そして一瞬後に、笑った。
「―――・・・」
それは今まで見てきた表情の中で一番獰猛で誇らしさに満ちた、そして愛しさに溢れた――― これ以上ないくらいに“男”を感じさせる貌だった。
それから吐息がかかるほど顔を近付けて、忍足は間近に青灰色の瞳を覗き込む。これほど傍で、互いの顔を拝むのはきっと初めてだ。
息遣いも、匂いも、体表から発せられる熱も。全てが届いてしまいそうな距離。それは、この今の不明快な胸の内も混乱している思考も、なにもかもが伝わってしまいそうに思えた。
そんな近すぎる距離に、跡部は僅かに身を引く。それを忍足は無理に追おうとはしなかった。
 ――― どうせ、逃げられやしないのだから
そう感じたのは、どっちだったろうか。どちらにしても、跡部が離せることの出来た距離はほんの数センチ程でしかなかったが。
ただ注がれる視線に、意識も、身体の自由も、全部が絡め取られていくような錯覚を覚える。
忍足が再び顔を近付けてくる。
今度は数ミリも動く事が出来なかった。
気付かずにいた、でも確かに内に潜んでいたモノが、露呈されそうな程に狭まった距離で、

「お前が、惚れさせるからや」

そう一言だけ。
けれど。これ以上の告白は、きっと他に無い。







別口の男娼ネタ。
忍足はどこかで喧嘩をしてきたみたいですね
気が向いたときにでも続きを仕上げたい・・です

060508



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