風が無いために、窓を開け放している部屋の中に停滞した熱気が、剥き出しの腕に絡みつく。

体温の低い手がオレの腕を取り、
睨みつけるオレを柔らかい眼差しで受け止めたお前を 酷く懐かしく思う。


笑いたいならば嘲笑えばいい。


何かにつけて、オレは、

    傍にいることが叶わなくなったお前へと 意識を飛ばしています





オレは何をもって彼を彼と認識していたか





跡部が忍足のマンションを出たのは、そろそろ日付が変わろうかという時分だった。
忍足が一人で住んでいるマンションは所謂高級住宅街に立地しているため、この時間ともなるとマンション前のメインストリートはほとんど人気が無くなる。
跡部は等間隔に並ぶ街頭を数えて歩くようなゆっくりとした速度で、最寄の駅へ向かっていた。
頭上には、もう数日で満月になろうかという月が昇っており、その月を掠めながら青みを帯びた黒い雲が上空の強風に流されて飛んで行く。
そんな綺麗な夜だった。

歩きながらポケットに手を入れて、携帯を取り出す。
常時数個の携帯を持ち歩いているが、プライベート用のこの1つを残して、後はカバンと一緒に忍足の部屋に置いてきた。夕方から途切れなく届く電話やメールにうんざりして、電源は全て落としてしまった。今持ち歩いているコレも例外ではない。
ぱちりと携帯を開いてみる。
真っ暗な画面を見下ろして電源を入れようか迷うが、結局そのままポケットに戻した。もう駅は目の前だった。



終電間際の混雑する電車に揺られること数分。
やってきた大きな大学病院は、消灯時間を過ぎているため部屋のほとんどに明かりがなく、白い大きな建物は些か不気味に聳え立っていた。
面会時間も大幅に過ぎているので、中に入っても人気はほとんど無い。事前に許可を取ってあった跡部はナースセンターに立ち寄り、ヤツが居るという部屋の場所まで案内をさせた。
連れられて向かった先は、地下、霊安室。
もともと人気の無い所ではあるが、深夜ということもあって、ますます静かだった。
監督や同じ元レギュラーの奴等も数時間前まで来ていたらしいが、今はもう全員が帰っている。
跡部は案内した看護婦に礼を言って帰すと、部屋に入り扉を閉めた。
さほど広くも無い室内には簡素なベッドが一つきり置かれており、明度の低い照明がその枕もとに灯っていた。

跡部はベッドに近寄り、そこに眠る人物を見おろした。
身体には白い布団がかけられ、顔も真っ白い布で覆われている。
跡部は顔の布を剥ぎ取ると、人物の顔を確認する。そして屈んで、ソレの首元に顔を近づけた。鎖骨に鼻を寄せるようにして匂いをかぐこの行為は主に忍足が跡部によくする事で、返すように跡部もしていることだった。
忍足が言うことには、首筋には動物と同様に人間にも匂いを発する腺があるらしい。
「跡部は、いい匂いやね」
そう言って隙を見ては吸い付いてくるものだから、跡部の首筋―― ちょうど襟首に隠れる部分には、忍足が付けた赤い痣が消えずにいつも付いていた。それは今も変わらずに在る。
今、目の前で眠る人物の首筋に痕はない。そもそも跡部には痕を残す癖などなかったから、その有無が証拠にはなりはしないのだけれど。
嗅いだ匂いは消毒の匂いが残る何ともいえないもので、跡部のよく知る香水の匂いはなかった。試しに忍足の部屋から拝借したアイツ愛用の香水をその首筋に吹き掛けてみるが、これじゃあ匂いがして当然だと、跡部は自嘲気味に苦く笑った。


今から数時間前に、忍足侑士が死んだ―― らしい。

彼は跡部の、一応“恋人”と呼ばれる関係にあった人物だ。
これは人伝に聞いた話で、跡部自身は本当にヤツが死んだのか、その時は確認していなかった。忍足の死因は交通事故で、車道に飛び出した子供を助けて自分が犠牲となったというのだ。
時折漫画や映画で見るような、なんともドラマチックな死に方だ。
ラブロマンス系が好きだったヤツに相応しいとも思ったが、跡部にはそれは嘘臭く感じた。
なぜなら忍足侑士という男は一見親切で人付き合いが良さそうに見えて、本当はテメェ自身が一番大事という、跡部とはまた違った意味で俺様なヤツだからである。
あんなに腹黒いヤツが、見も知らぬガキを助けてテメェが死んちまうなんて、絶対にありえないと思った。
それなのに。
いくら待っても、忍足は部屋に帰ってこなかった。
そしてここに眠る、冷たい、眼鏡のない男。

「・・・お前は、誰だ?」

オレの恋人、忍足侑士によく似たこの物体は、一体、何なのだ。
呟きは冷えた部屋の空気に溶けていった。





翌日の葬儀には、忍足が助けたという子供とその両親も参列していた。
まさしく、針の筵である。
忍足の勇気ある行動や助かった子供の幸運などというものは、愛していた彼を失った周囲からしてみればなんの慰めにもならず、ただ彼の命が奪われたという一点の事実と、その原因となった者への憎しみだけがこの場を包んでいた。
方々から突き刺さる好意的ではない視線に、彼らはすっかり顔色を無くしていた。ただ見た目3・4歳ほどの子供だけは状況が解かっていないらしく、母親の喪服の裾を引っ張って遊んでいる。
周囲の人間同様、跡部も彼らの様子を眺めていた。しかしそれは忍足の死を嘆き、そして原因を作った彼らへの憎悪から視線を向けたからではなかった。強いて言えば“観察”というのが正しいだろうか。
跡部はずっと考えていた。
不思議で堪らなかったのだ。
あの子供を救って“忍足”は死んだのだと周囲は口をそろえて言うが、ならどうして、死んだ“忍足”はあの子供を救おうと思ったのだろうか、と。
見たところ、両親とはいっても歳は自分たちより少し上くらいだった。よく聞くショットガン・マリッジで結ばれた仲なのだろうか、子供はいるがまだまだ遊びたい盛りとでもいうように、随分派手な印象を受ける。何より、中学生と忍足家の親族が集まる中、彼らの明るく脱色された髪の色は可笑しいくらいに浮いていた。
と、そしてはっとする。
(・・・・・・そうか、)
気が付いた瞬間、跡部の中で漸く符号が合致した。


香典を済ませた彼らは、忍足の両親に一礼をすると足早にその場を去ろうとした。しかしオレの目の前を通り過ぎようとしたとき、まさに計ったようなタイミングで子供が転んだのだ。
オレは一歩踏み出すと、子供の腕をつかんで抱き起こしてやった。黒い半ズボンに付いた埃を払ってやると、ありがとうございます、と小さい声で子供が言った。オレは少し目元を弛めて見遣る。下はコンクリートであったのだが、子供に怪我は無い。
すみません、すみません、と繰り返す母親に、オレは身体を起こしながら言った。

「お子さん、怪我が無くてよかったですね」

「・・・・・・ッ!」

オレにはインサイトという力があって、ヒトの弱点やなんかを容易に知ることが出来た。
嫌味な力だとよく言われるが、向けられる方にとってはその通りだろう。しかし攻撃的なオレの性格上、相手の心を抉る言葉を的確に発することが出来るという点においても、己の身に備わってありがたい力だと思っている。
泣きそうに歪んだ顔を向けられ、オレは完璧だと絶賛される微笑を浮かべた。

「お子さんは、お幾つですか?」
「・・・3歳、です」

母親は子供の肩に手を掛け、蚊の鳴くような声で答えた。
母親は身長があまり高くないので、オレからは俯く彼女の旋毛しか見えない。旋毛の周りは黒髪が伸びてきていて、毛先との色のギャップが醜かった。

「そうですか」

オレは再び身を屈めて、黒い大きな目でオレを見上げてくる子供の髪をくしゃりと撫でた。

「――― お子さんに、この髪の色は似合いませんよ」

視線だけを上げて母親を見、穏やかかもしれない声色で言うと、母親は一瞬何を言われているのか分からないという顔でオレを見た。しかしオレの蒼い目とかち合った途端、本当に泣きそうに、すみません、と言った。
子供の染められた髪の色は、オレのものと非常によく似ていたのだ。
オレは綺麗に笑顔を浮かべたまま、喉の奥で低く笑った。

 オレは、酷く優しくない

もう一度子供の髪を撫でると、跡部は小さく舌打ちをして彼らに背を向けた。
すみません、すみません、と背後で平謝りする声が聞こえてきたが、跡部は構わず歩みを進める。不快なのは彼らに対してではなかった。
忍足侑士にだ。
(――― バカな男だ)
忍足は事故の直前に携帯を見ていたという。その所為で子供の飛び出しに気付くのが遅れ、助けるのが遅れ、結果として自分が助からなくなってしまった。
極親しいものだけが知っていることだが、忍足の携帯の待ち受け画面は跡部の幼少期の画像だ。
どこから手に入れたのか知らないが、止めろと言っても聞かないだろうから放っておいた。跡部が何も言わないのをいいことに、忍足は時折それを開いては相好崩していたのだ。

「・・・バカな野郎だ」

 どうして間違えんだよ

そうだ、ヤツは間違えたのだ。
携帯を見ていたこともあったのか、車道に飛び出した子供と跡部とを。
そうでなければ忍足の行動の理由が付かない。
自分が損をしないように、何でも上手く立ち回るのが忍足侑士だ。そのアイツが。見ず知らずのガキを助けてテメェが死んちまうなんてミスを犯したというのならば、それ以外にはあり得ない。
憶測なんかではなく、絶対にそうだと、確信をもって言える。

オレは棺の前まで行くと、何事かと驚く周囲を余所に、昨夜したように横たわるヤツの首元に顔を近づけた。
鼻を付いたのは、死と、昨日吹き付けた香水のラストノートが混じったもので、やはりオレの知る忍足侑士の匂いではなかった。つん、と鼻の奥が刺激される、なんとも言えない匂いだ。
けれど、
(・・・忍足、オレも、バカだったみたいだ)
お前じゃないと散々否定しておきながら、お前に酷似したモノが箱に詰められ、これから焼かれようとしていることに、あり得ないくらい心臓が痛む。
こんな感情は知らなかった。知らないままでよかった類のものだったのに。


「・・・跡部、」

いつまでも顔を上げないオレに、背後から監督が声を掛ける。そろそろ出棺の時間だったが、オレはどうしようもなかった。
昨夜はコイツの顔しか見てなかったから気付かなかったが、今見た、胸元に組まれているコイツの手。その指に、見知ったリングを見つけてしまったのだ。
だから、もうオレは、コレを忍足侑士と認めるしかなかった。



オレの忍足侑士は死んだのだ。



そう認識した途端、身体が言うことを聞かなくなった。
出棺の時間が迫っている。コイツの家族も、テニス部の奴らもクラスの奴らも見ている。
その目の前で。
忍足の首元に縋り付いたまま離れられないなんて。

「・・・・・・忍足、」

凄むように発したはずの声は、みっともなく擦れて震えている。
監督が気遣うようにオレの肩に手を掛けるが、オレは顔も、声すらも上げられない。
忍足の纏う、真っ白な死装束の襟元に掛けた手に、ぎゅっと力を込めることしか出来なかった。

「跡部、もう、時間だ」

「解かっています」と応えるはずが、声は出ずに代わりに嗚咽に近い空気が漏れる。
指先に益々力を込めた。
人前でこんな無様な姿を晒したのは初めてで、そして何かをこんなに手放したくないと思ったのも初めてだった。
対処の方法が解からない。
滲む視界に映る青白い肌同様、頭の中が真っ白になりかける。しかし、ただ、そんなオレを余所に目の前で眠りこけているのが忍足侑士であるとだけは、はっきりとしていた。
 憎い、憎らしい、
 ムカつく
どうしてこのオレが、こんなに苦しい思いをしなくちゃならない?
頭の中がぐちゃぐちゃになる。

・・・・・・ああ、本当に、コレはオレの忍足侑士だ。


「――――― 忍足」


 この失態の責任を、お前はどう取ってくれるというのだ。







コレを書きながら、ウチの2人は相手が死んでしまった場合、即座には認めないんだなぁと感じました・・・

060802



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