パイの焼ける匂い






懐かしい夢をみている。
オレは今、遠く過ぎ去った昔の夢を見ている。
そうずっと気が付いていた。
起きなければならないと思うのだけれど、オレは半覚醒のまま、ぬるま湯の中をたゆたうような感覚に心地よく身を預けていた。






「・・・とべ、 あとべ・・・跡部、」

繰り返し名前を呼ばれて、オレは仕方が無く目を開ける。
寝起きの目の映る世界はぼんやりとしたものであるが、自分を覗き込んでいる黒い影が、この部屋の主である忍足侑士であるとは解かっていた。忍足がオレを起こすとき、顔を近づけて囁くように声を掛けるのはいつものことだ。
しかしそのいつもの光景に、オレは眉を寄せる。
目の前に見えた忍足の表情はいつになく曖昧であって、なんと表現してよいか解からないものだった。
困っている様な、呆れている様な。
しかし悲しそうでもあり・・・また慈悲深くも思えた。
『どうしたんだよ、』
そう問いかけようと口を開けたが、

「・・・お前、どないしたん?」

逆に聞かれてオレは口を閉じる。
少しだけ考えて、ああ、と漸く事態を飲み込むことが出来た。

オレの頬は濡れていた。
・・・泣きながら寝てたのか、オレは・・ ガキみたいに。
(だから忍足は困った様な呆れた様な顔をしていたのか)

「まぁ、茶でも飲んで落ち着き。菓子もできるし」

忍足がキッチンに目を向ける。つられてオレもそっちを見た。
一人暮らしの男のキッチンには似合わない大きなオーブンが、赤く熱を孕んでいるのが見えた。
その光景に、オレの目は釘付けになる。

「テレビで作り方やってたんよ」

忍足の声を遠くに感じる。
オーブンと、気遣うように優しく笑いかける忍足を見ていられなくて、オレは顔を背けた。


 ――― パイの焼ける匂いがする


目を閉じる。
しかし目を閉じたところで匂いは消えるはずもなく、強く感じる一方だ。
息も止めてみる。
けれど呼び起こされた記憶中の、嗅ぎ慣れていた匂いは、身体に纏わり付いて離れない。

「跡部?・・・もしかして・・パイ、嫌いやった?」

「・・・・・・・・・」

部屋中に、パイの焼ける懐かしい匂いがする。

 ・・・だから、あんな夢を見たのか

息苦しくなって、オレはシャツの胸元をぐっと握り締めた。
最悪だ。
最悪な気分だ。

「跡部・・?」

「・・・・・・お前が・・、」

「え?・・・なに、」

「―――― お前が余計なことするからだ」

思い出してしまった。

「・・・あとべ?」

「・・・・・・・・・」


お前が余計なことをするからだ



愛しいあの時間は、もう戻らないのに。







過去のある跡部様・・・そんな彼も素敵だと思います。
忍足の何気ない言動がするっと傷を掠めるような・・・それで忍足にキツイこと言っちゃったりして。
訳が解からない忍足は困惑して・・・以下略

050130